何年か前から、唐突にクラシック音楽ばかりを聴くようになりました。コンサートにはほとんど行かず、もっぱら古い演奏のCDを買っては家で聞いています。なぜかというと、とってもお安いからです。たとえばですが、20世紀ベスト3に入ると広く認められている、指揮者カール・リヒターによる『マタイ受難曲』(1958年録音)の3枚組CDは、輸入盤ならアマゾンで2500円で売っています。リヒターのマタイというのは、ワインで言うならばアンリ・ジャイエのクロ・パラントゥー1978みたいなものです。でも、今ではたったの2500円。ポチっと押せば翌日に届くお手軽さ。複製芸術ってスゲエなあとつくづく思います。同じものを、劣化しないクオリティで無限にコピーできるので、衝撃的に安い値段になっていくのです。
昔は音楽だって、高級ワインと同じく富裕層だけの娯楽でした。ベートーヴェンが、初のフリーランス音楽家として成功するまでは、作曲家はみんな貴族に抱えられていたのです。でも、今では庶民の味方の2500円。高級ワインもね、きっといずれそうなると思うのですよ。いまから何年後かは知りませんが、「ロマネ・コンティ1985(2005年時点の味わい)」をもつワインが化学合成によって作られ、必要なだけ複製され、気軽にポチっと押せば次の日届くようになるのだと。そんな時代には、液体としてのワインが売られることすら、なくなっているかなあとも思います。ヴァーチャル・リアリティの器具を通し、ロマネ・コンティを飲むという「体験」が脳に直接、電磁信号として送られるようになるのではないかと。
2年ほど前にそんなことをあれこれ想像し、某雑誌の連載記事に書いたのですが、そのときはですね、「まあ、そうは言っても俺が生きている間はないだろうなあ。ロマネ・コンティ1985、できたら2500円で飲みたいけどなあ」と考えておりました。しかし、世の中の進歩の速度は想像以上だったのです。
このほど、サンフランシスコにあるベンチャー企業のAva Wineryが、「俺たちゃブドウなんか一切使わずに、ドンペリだって複製しちゃうもんね」と名乗りを上げました。水に、アルコールとさまざまな風味分子を加えて合成した、「ワインもどき」を作っているわけなのですが、オーナーであるMardonn ChuaとAlecのLee夫妻がこのビジネスのアイデアを思いついたのは、シャトー・モンテレーナのシャルドネがきっかけでした。2015年にナパ・ヴァレーを訪問した夫妻は、40年前に伝説をつくったシャルドネの空き瓶を見て、こう感じたのです。「こんなすごいワイン、自分たちが買えることは一生ないだろう。味わって、楽しめることなんてありっこない。じゃあ、どうしたらいいんだ?」。で、コピーを作っちゃえ、となったのですね。
下記記事によれば、このワイナリーはこの夏、「ドンペリもどき」を50ドルで売り出すのだそうです。限定499本だそうですが、私は本気で飲んでみたいのです。50ドル出せば、普通のモエ・エ・シャンドンならちゃんと買えてしまうのですが、そんな問題ではありません。合成ドンペリもどきが、どの程度の味わいなのかを知りたくないですか? もっとも、同ワイナリーが試作品として造ってお披露目した「モスカート・ダスティもどき」は、「プールに浮かべる風船のサメみたいな匂い」がする、相当イタダケナイ代物だったようです。
とはいえ、何事も最初から万事ウマくいくものでもないので、このワイナリーの野心的な挑戦に期待したいと思います。もちろん、私もけっこうなイイ年なので、「テロワールもブドウもなーんにも関係ない、テクロノジーだけで造られた大量生産の液体」を、今の世にある本物のワインのように愛せるかはわかりません。味が完全に同一でも、です。とはいえ、年寄りが何をどう嘆こうと、時代の流れはどのみち止まりません。そのときがくれば、黙って受け入れるしかないのでしょう。
(参考サイト)
https://www.newscientist.com/…/2088322-synthetic-wine-made…/
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立花峰夫:
ワイン専門翻訳サービス タチバナ・ペール・エ・フィス代表。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
(タチバナ・ペール・エ・フィス: http://www.tpf.kyoto.jp)
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