昔から好きなワイン・ジョークに、こんなものがあります。「その昔、イエス・キリストは水をワインに変える奇蹟を起こした。素晴らしいことだ。それから2000年のあいだ、ワイン業界の人間は皆、イエスの2度目の奇蹟を待ち望み続けている。すなわち、ワインを利益に変えるというものだ」。ちゃんちゃん。クリスチャンの皆様、すみません。宗教を冗談にしてはいけないのはよく知っているのですが、好きなのですよ、このネタ。皆様もよくご存じのとおり、ワインはちっとも儲かりません。「ワイン業界で、小さなお金を稼ぐ秘訣を教えてあげよう。まず、大きなお金を元手にすることだ」なんていうジョークもよく聞きます。
まあ、だいたいにおいて、「好きを仕事にする」的な業界ではたいしたお金は稼げません。「私、タダでもやります」という市場を荒らす不逞な輩がいっぱいいるのが理由のひとつですし、ちゃんと商売でやっている人達にも、「あんまり儲からないけど、楽しいから、ま、いっか」的なユルいところがあるのです。これは、飜訳の業界でも一緒ですね。楽しい仕事ほど稼げません。もちろん、お金がすべてではないのですが。
偉大なる醸造学者の故エミール・ペイノーはかつて、「あらゆるワイン業界の職種の中で、醸造家こそが最高のものだ」的なことを書いていました。これはきっと、真実なのです。私はちょっとのぞき見した程度ですが、ワイン造りってホントに楽しい。状況が許すなら、一生続けたいと心底思いました。しかし、その分食べていくのは大変です。「ワイン造りがしてみたい。でも、自分でワイナリーを興すのはいろいろ無理だから、まずは日本のワイナリーで働いてみよう」なんて思っている人は、低賃金を覚悟してください。経験の有無にもよりますが、正社員でもスタートはだいだい月給で額面15~20万円てなもんです。額面10万円以下の、なかなか唐辛子の効いた求人もありました。日本のワイナリー、まだまだ産業としては小さく儲からないので、雇用者側もない袖は振れません。小規模ワイナリーだと、醸造責任者などの重要ポストでも、年収300万円前後しか貰えないことがあります。
一方で、ワイン産業がそれなりに発達していて、ソコソコ儲かってもいるアメリカにおいては、ワイナリーで働く人の賃金水準も高いです。アメリカでもワインが「好きを仕事にする」業界だというのには変わりなく、金融やITみたいな派手な業界と比べればずいぶん賃金は大人しいものなのですが、それでもまあまあいいお金が貰えます。Wine Business Monthlyというアメリカのワイン業界誌が毎年、「アメリカ・ワイン業界の給料調査大報告」的な特集記事を組むのですが、2015年10月号に載った数字をいくつかご紹介しましょう。賃金は、ワイナリーの規模によって違い、当然大きいところほど高いという傾向はあるのですが、下記はあらゆる規模のワイナリーの平均、全米平均です。金額は年収で、1ドル110円で日本円に換算しています。
●マネージメントに重点がある醸造責任者: 12.5万ドル(約1400万円)
●実務に重点がある醸造責任者: 9.9万ドル(約1100万円)
●醸造責任者助手: 7.3万ドル(約800万円)
●ワイナリーの単純労働者: 4万ドル(約440万円)
うむ、なかなか貰えるではありませんか。その分、出世競争みたいなのは結構激しいのですけどね。なお、アメリカの中でも当然地域格差はあり、ナパやソノマのワイナリーは高く、オレゴン、ワシントンになると醸造責任者でそこから1~2割減、東海岸の産地だと4割減ぐらいになります。ワインの売値に賃金も比例している感じですね。
とはいえ、ワイナリーを経営していくにあたって、人件費が高いというのは経営者からするとシンドイ部分ではあります。アメリカは転職社会なので、優秀な人材をつなぎとめておこうとすると、浮気されないだけの賃金を払わなければなりません。そうしないと、すぐヨソにみんな移っちゃうのです。
そんな中、カリフォルニア州においてこの春、労働者の最低賃金を段階的に引き上げていくという決定が州政府によってなされました。ワイン業界に限らずなのですが、2022年までに州が保証する最低時給が15ドルまで上がるそうです。1ドル110円で計算したとして、時給1650円。東京都の今の最低時給が907円、大阪府が858円ですから、これはかなりの高水準ですよね。ワイン業界の雇用者側は、この決定に対して不満ブウブウで、「こんな高い時給払うんだったら。収穫その他の作業について、機械を買って人の代わりにやらせるしかない」といった反応が、あちこちから出ています。最低賃金の引き上げは、下っ端労働者だけでなく、上級職の賃金水準をも引き上げることになるだろうと予想されていまして、ワイナリーで働く月給取りにとっては朗報なのでしょうが、経営者にとっては悪夢になりつつあります。
カリフォルニアワイン好きの消費者のひとりとしては、人件費の上昇が販売価格に転嫁されないことを祈るばかりです。そこはなんとか、企業努力でカバーしてほしいですな。オーナーの取り分を減らすとかで。「好きだから、ま、いっか」の精神でここはひとつ。
*********************************
立花峰夫:
ワイン専門翻訳サービス タチバナ・ペール・エ・フィス代表。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
(タチバナ・ペール・エ・フィス: http://www.tpf.kyoto.jp)
*********************************