もうだいぶ前になりますが、『ワインの帝王 ロバート・パーカー』という本を訳しました(原書刊行2005年)。著者はエリン・マッコイというワイン・ジャーナリストで、ちゃんと取材してちゃんと書いた、読み応えのあるルポです。今となっては考古学的価値がほとんどですが、まだ絶版ではないのでアマゾンなどで新品が買えます。この本の最後は、次の一節で終わっていました。
「……ワイン界の言論の中心には、パーカーの力が弱まり始めているという向きもある。だが、今のところその兆候はほとんど見られない。パーカーの影響力は間違いなく、これから何年もワインの世界に波紋を広げるだろう。彼が引退する日はくるのだろうか。だがパーカーは、自分の仕事を愛している。ワインを夢見る男なのだ。
パーカーがもつ力と役割を、誰か別の人間に引き継がせることは、不可能でないとしても難しいだろう。そもそもの彼の名声は、その特殊性、すなわち唯一無二で、天与に近いテイスティング能力に根ざしているのだから。パーカーの後を追うものは、今後も出現するだろう。しかしパーカーは、ワインの世界を変えてしまったのだし、彼を王座につかせた特殊な時代状況が、繰り返されることはない。ワインの帝王が、ふたたび現れることはないのだ。」
さて、この文章が書かれてから10年あまり、パーカーは大きく変わり、その力はずいぶんと弱まってしまいました。どんどんと「手下」にワインの採点をまかしていき、自分で担当する産地を減らしていったからです。2015年春のボルドー・プリムール商戦(2014ヴィンテージ)に参加せず、ニール・マーティンに跡をゆずったときには世界に衝撃が走りました。プリムールこそ、パーカーを世界一のワイン評論家にした舞台だったからです。その後もしばらくは、古いヴィンテージのボルドーについてはパーカーが評価を続けていましたが、2016年にはそこからも撤退。残されたのはもうひとつのお気に入り産地、カリフォルニアだけになっていたのですが、こちらもちょっとずつ自分で評価する地区を絞っていき、今ではナパのワインしかパーカー自身は評価していません。もはや引退間近、というかもう実質引退という感じですね。
パーカーの媒体である『ワイン・アドヴォケイト』も大きく変化しました。2012年、シンガポールの投資家に株式の過半数が売却されたのです。このとき、パーカーは「編集長」という肩書になったのですが、翌年には当時シンガポール在住だったMWのリサ・ペロッティ・ブラウンが新しい編集長に就任しました(現在はカリフォルニア在住)。そして今年7月、またまた大きな波がやってきまして、ミュシュラン・ガイドで知られるフランスのタイヤメーカーのミシュランが、株式の40%を取得したのです。シンガポールの投資家に買われて以降、ワイン・アドヴォケイトは中国やアジア各国の星付きレストランで頻繁に高額ワインディナーを企画してきており、それがミシュランとの提携につながりました。今後はまず、北米とアジアでワインディナーのビジネスを展開し、それからヨーロッパほかの地域に進出する計画だそうです。
パーカーは、今回のミシュランとの提携について、「あまりに長い年月、ワインと料理の評論は、異なる専門領域として分断されてきた。しかし今、公平かつ独立していて、偏向がなく、知的でもある、料理とワインの意見と知恵が、最も現実的な形で結びつくことによって、料理、ワイン双方の消費者が恩恵を受けることになった」とコメントをしていますが、まあ綺麗事ですよね。ワイン・アドヴォケイトは、「独立独歩、消費者の味方」が長年その旗印で、だからこそ当時の時代状況の中であれだけ強大なパワーを持ちえたわけですが、今回のミュシュラン参画でそんな雰囲気は消えてなくなり、がっつりビジネスをする多国籍企業になっちゃったという印象です。「パーカーがいなくなったあと、『ワイン・アドヴォケイト』はどうなるか?」というのは、ずっと世界のワイン業界人が考えてきたことなのですが、きっと現在の形が正解なのでしょう。マッコイが上記の一節で言うとおり、誰か特定の個人が引き継げるモデルではなかったわけですから。
1947年7月生まれのパーカーは、今年70歳になりました。1978年に『ワイン・アドヴォケイト』を創刊したときには、「夢と勇気だけを武器に、悪しきワイン業界の権威に立ち向かう貧しい若者」だったのですが、功成り名を遂げて帝王になり、今やすっかりおじいちゃんですからね。会社を売ったキャッシュと思い出を手に、のんびり余生を送っていい頃です。誰にだって引退するときは来るのであります。
『ワイン・アドヴォケイト』が、グルメ評論国際企業へと脱皮することで時代に対応する一方で、「ネクスト・パーカー」を目指そうという人もいます。同誌で2013年からローヌやカリフォルニアを担当してきた評価者のひとり、ジェブ・ダナックは、ミシュランによる株式取得の前月に独立し、自身の有料評価サイトJebDunnuck.comを立ち上げました。まだ若いダナックは、帝王から「若かった頃の自分にそっくり」などと言われて寵愛を受けていたのです。その彼が、『ワイン・アドヴォケイト』が大揺れする直前に独立したのですから、なんか「いろいろあった」のだろうなと想像してしまいます。パーカーの元を去ってアメリカで自身の評価サイトを立ち上げたのは、2013年のアントニオ・ガッローニ(Vinous)に続いてふたりめですが、どちらも往時のパーカーのようになることはないでしょう。マッコイの言うとおり、「ワインの帝王が、ふたたび現れることはないのだ」と、私も思います。
そもそも、「専門家がワインを飲んでコメントを書き、点数をつける」という批評のカタチ自体が、そろそろ耐用年数切れでしょう。前のコラムで書きましたが、そんなのはもう、セラー・トラッカーみたいなクラウド・サービスでたぶんいいのです。今のワイン消費者はまったく新しいワイン評論を求めていて、きっとあと数年のうちに表舞台に登場してくるだろうと勝手に予想しているのですが、さてどんなものでしょうかね。パーカーが40年前にワイン評論を変えたような、地殻変動がそろそろ起きてほしいなあ。世界のどこかにいるであろう、夢と勇気しか持たない貧しい若者に期待したいと思います。
"ワインの帝王 ロバート・パーカー"
Elin McCoy 著 立花峰夫・立花洋太 訳 白水社
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b204039.html
<参考サイト>
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b204039.html
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立花峰夫:
ワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」スクールマネージャー。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
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