若いときの自分の話をするのはまあまあ恥ずかしいのですが、ワタシは30過ぎの頃、ワイン造りがしたくてしたくてたまりませんでした。いろんな本で、ワイン造りのお勉強をガリガリしていたのですが、「自動車の取扱説明書いくら読んでも、運転してみないことには、『クルマに乗る』ってどういうことかわからんよねー」と思ったのです。自分の手で、どうしてもハンドルを握ってみたいと。そうしないと、この先ワイン業界で何をするにせよ、前に進めないなと。それで、合計すると1年半ぐらいでしょうか、3つのワイナリーで栽培・醸造研修生をやりました。日本でふたつ、カリフォルニアでひとつ。楽しかった。ひ弱なワタシには肉体労働は大変キツかったですが、毎日がキラキラと輝く夢のような時間でした。たかが研修生の身分ですが、本をいくら読んでもわからないreal thingを毎日体験することができたのです。
2003年の秋、最後に研修したカリフォルニアの名門ワイナリーにいるときには、「このままカリフォルニアに留まって、醸造家になれないだろうか」と、真剣にずっと考えていました。でも、その「夢」を実現させることは結局できず、ワタシは日本に戻って、書きもので身を立てる道を選ぶことになります。当時のワタシは32歳でしたが、そのワイナリーの実質的な醸造責任者はひとつ年上の33歳。面倒見がいいだけでなく、むちゃくちゃに優秀かつ有能なオトコでして、いまでも友人ではあるものの、とにかく「世界最高のワイナリーで、トップを張るのにふさわしい」奴なのです。一方のワタシは、栽培・醸造学の学位も何もなく、ワイン業界に入ったのですら27歳と遅く、ただ中途半端に歳をとっただけ。「どうやってもコイツに追いつくことはできない」と思い知らされたのが、夢を断念した理由のひとつ。もうひとつの理由は純粋に経済的なものです。当時すでに嫁と子供ふたりという扶養家族ならびに家のローンを抱えていたワタシは、恥ずかしながら年老いた親に借金して研修生ジプシーをしておりました。もし、カリフォルニアで醸造家になるなら、UCデイヴィスかフレズノといった大学の栽培・醸造学部をやはり卒業しなければなりません。最低4年間、無収入で、後述するように莫大な学費と現地の生活費を払い、かつ日本の家族を養う余裕はワタシにはどうやってもなかったのです。そんなわけで夢を諦めたワタシなのですが、いまでもときどき、「ああ、ワインが造りたい。現場で仕事したい」としんみりします。
さて、ここからは平林園枝さんの話をしましょう。彼女はワタシと同い歳の、か弱そうでいて実はタフな、とてもチャーミングな女性です。ワタシより数年遅くワイン造りの道を志したにも関わらず、UCデイヴィスを優秀な成績で卒業したのち、クスダ・ワインズ(NZ)、リトライ(CA)、モンセカーノ(チリ)、ギャリー・ファレル(CA)、マサイアソン(CA)といった蒼々たるワイナリーで研修や勤務をし、2017ヴィンテージから自身のブランドであるシックス・クローヴス Six Clovesを立ち上げられました。そのワインは素晴らしいの一言。まだまだ醸造設備もなく、生産量も非常に少ないミニミニ・ブランドですが、その品質は世界中どこに出しても「エッヘン」とできるものです。ワタシは純粋に、夢を実現させた彼女が羨ましい。お会いするたびに、「いいな~、いいな~」と、身をよじってしまうぐらいです。
そんな園枝さんが、12月上旬に帰国された際、行ったインタヴューが以下のものです。カリフォルニアで、あるいは他の土地ででもいいですが、「醸造家になってみたい!」と思う方は、参考にしてください。
――UCデイヴィス、学費がバカ高いと聞きますが、どれぐらいなんですか?
「理系の大学を卒業した人だったら、単位互換がきくので4年丸々通わなくてもいいケースがあるのですが、私の場合はそうではなかったので、4年間行きました。学費については、カリフォルニア州の住民か否かで3倍ぐらい違うのですが(公立大学なので、カリフォルニア州の住民は安い)、私の頃(2007年入学、2011年卒業)は4年間で1,000万円ぐらいでしたね。今はもっと高くなっているんじゃないかなあ」(注:UCデイヴィスのウェブサイトによると、現在の外国人向けの学費は、4年間で約1,900万円!)
――学費以外にも、生活費もかかりますよね。その費用はどうされたんですか?
「デイヴィス、田舎のくせに家賃は高いんですよね。ルームメイトがいても、月に10万円ぐらいはかかります。ただ、何もない町で物価は安いので、ひとりなら一ヶ月の生活費は20万円ぐらいでしょうか。本当にビンボーな学生なら、その気になればまあその、野菜や果物は学内の畑を荒らせば調達できますし(笑)。それでも4年間で1,000万円ぐらいになりますね。もちろん、栽培・醸造学部はUCデイヴィスでも特に学業が忙しいので、生活費を稼ぐバイトなんかするヒマはないと思っていたほうがいいです。私の場合、NYの商社でOLをしていたときの蓄えがあったので、それを取り崩したのと、4年間のうちの3年間については奨学金がもらえたので、それでなんとかなりました」(注:当然ですが、奨学金をもらえるのは、成績優秀な学生さんだけです。)
――学費や生活費をまかなうのが大変なことはさておき、そもそも希望すればサクっと入れる大学なんですか?
「世界的に有名な栽培・醸造学部のわりに、UCデイヴィスは定員が少ないんですよ。毎年1クラスしかなくて、学部生と修士の院生を合わせてマックスで50名ぐらい。海外も含め、ワイナリーの子弟は優先的に入学できるので、『それ以外』の人の枠はほんとうに少ない。非常に狭い門ですね。学生の平均年齢も高くて、30代前半っていうところでしょうか」
――UCデイヴィス卒業って、やっぱり一握りのエリートなんですね。同期で有名な醸造家はいますか?
「私の学年の同期、上、下は、けっこう出世してる人が多いですね。有名どころだと、スクリーミング・イーグルの醸造責任者をしているニック・ギズラソンが、一年先輩の修士卒です」
――それだけのエリートなら、卒業後の就職先はよりどりみどりでしょう?
「いやいや、それがまったく(笑)。私が卒業した頃のワイン業界は買い手市場でしたから、フルタイムのポストは皆無でした。強力なコネがあるか、ワイナリーの子弟でもないかぎり、就職先なんてみつからない時代だったんですよ。ただ、私の場合は、将来自分のブランドをもつことが目標だったので、フルタイムのポストにはこだわらず、最高のワイナリーで研修生として働くことを選びました。研修生とはいえ、働かせてもらうのは簡単ではないんですよ。リトライなんて、毎年研修申込みの履歴書だけで、数十センチの高さになる」
――アジア人で、しかも女性だということで、就職差別のようなものはあったのでしょうか。
「私の場合、小柄すぎたということが、就職先を見つける上でハンデにはなりましたね。ワイナリーの醸造機器はすべて、白人男性の平均的な体格をもとに設計されているので。最初の研修が終わったあと、友人のアシスタント・ワインメーカーにポストがあるか尋ねたところ、『園枝は雇えない。小さすぎるから』と、はっきり言われたこともありました。日本が著名な『ワイン生産国』ではないことも、ハンデになることはあるようです。とはいえ、食に関心の高い醸造家には、日本の食文化をリスペクトしてくれている人も少なからずいて、有利になることもあります。私がリトライのテッド・レモンに雇ってもらえたのは、日本人であることがその理由のひとつでした。ただ、日本人はたとえフルタイムのポストを得られたとしても、そのワイナリー内で登っていくのが難しい。日本人特有の気質から、自己主張をあまりせず、物事を言い通さないから。自信を持って、ホラでもいいから自分を曲げないように主張しないといけない。情熱や知識、経験を過小評価されることが多いんですよ。よく働くので黒子としては重んじられるのですが、トップになるのが簡単ではないのです」
――ご自身のブランドを立ち上げる日本人醸造家が多いのは、そういう事情もあるのですね。園枝さんも2017年からその道に入られましたが、現在醸造はどこでなさっているのでしょうか。
「2017年については、カスタム・クラッシュ(ワイナリーを持たない醸造家に設備を貸す専門の業者)を利用しました。ただ、費用が1ケースあたり40~50ドルとお安くないのです。もうひとつのオプションとしては、友人のワイナリーの設備を貸してもらうという方法があり、そちらのほうが費用的には安いのですが、衛生管理などの責任範囲が曖昧になるという問題があるので、一長一短です。カスタム・クラッシュは専門業者である分、そのあたりはしっかりしているので。2018年、2019年については、メドロック・エイムスというアレキサンダー・ヴァレーのワイナリーに、赤星さんという日本人男性がアシスタント・ワインメーカーとして働いていて、そこの施設を借りましたが、ここは管理が万全なワイナリーなのでよかったですね」(注:赤星さんは、かの長沢鼎(下記参照)の兄弟の子孫なのですが、その事実を知らずにカリフォルニアで醸造家になったという、とっても「血は争えない」人です)
●長沢鼎について
http://www.hoteiwines.com/winery/winery_detail.cfm?dmnID=639
――ワイン造り、ご自身がトップとしてやると、大変なことも多いでしょう?
「自分がトップでなくても、ワイナリーで働くのは大変です(笑)。農作業や醸造ができるだけではダメなんです。大工仕事もできなければならないし、機械が壊れたらその場で自力で直せないといけない。何万ドル分のワインが入っている樽を、フォークリフトで動かすのなんて恐怖ですよ。同僚で、樽をフォークから落としてクビになりかけた人もいましたから。自分がトップとしてワインを造るとなると、役割はもっと増えます。人を雇わないなら、会計士の仕事もしなければならないし、セールスも自らしなくてはならない。ワイン造りの面でも、ほかならぬ自分が即決していろんなことを判断していかないといけませんしね。ワイン造りに知識は必要ですが、それだけではダメなんです。直感で動けるセンスが必要。素晴らしいメンター(師匠)をもつことも、今の時代は特に大事でしょうね。情報交換を密にできる、仲間の醸造家をもつことも重要です。あとはとにかく根気と精神力。今年のハーヴェストの期間中、仕事に支障が出る程度の比較的大きな怪我のせいで、初めて私は悔しくて泣いてしまったことがありました。人前では泣かず、陰でですけどね。それでもメゲてはいられない。ハートの強さが何よりも求められます」
***
ワタシが敬愛してやまない園枝さんのワイン、ぜひ一度飲んでみてください。彼女が積み上げてきたこれまでの歳月と、現場で流した汗と涙が詰まっていますが、その苦労を感じさせない実にエレガントな味わいです。
●シックス・クローヴス 商品紹介ページ
http://www.hoteiwines.com/winery/winery_detail.cfm?dmnID=684
********************************
立花峰夫:
ワイン専門翻訳サービス タチバナ・ペール・エ・フィス代表。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
(タチバナ・ペール・エ・フィス: http://www.tpf.kyoto.jp)
********************************