ワインの「名前」って何なの?というのは、実はかなり面倒くさい問題だけれども、売上を左右する決定的に重要な要素よん、という前回コラムの続きです。
今日ワインの名前は、瓶に貼られたラベルに書かれているのですが、その歴史はたかだか150年ほどしかありません。紙のラベルの普及は、ガラス瓶にしっかり接着できる糊が実用化された1860年頃のことだそうです。それ以前の時代、ワインの名前はコルクへの焼き印や、デカンターの首からぶら下げる札に書かれていたんですね。
ワインの歴史が始まってから相当長いあいだ、ワインの名前といえば産地の名称でした。古代ローマ時代の銘醸ファレルヌムに始まって、ボルドー(クラレット)、クロ・ド・ヴージョ、シュタインベルガーなどと、優れたワインはその産地の名前や畑の名前で呼ばれてきたのです。そこに、「生産者」という要素が加わってきた初めての例が、ご存じシャトー・オー・ブリオン。17世紀のこと、ロンドンにあるロイヤル・オークという居酒屋でワインを飲んだサミュエル・ピープスという有名な官僚・政治家は、1663年4月10日の日記に次のように書きました。「ホー・ブリヤン(Ho Bryen)と呼ばれるフランス・ワインの一種を飲んだが、これはいまだかつてお目にかかったことがないような独特の味わいをもつうまいものだった」。名前ちょっとまちごうとるやんけ、というのはさておき、この時期以降のボルドーでは、優れたワインを蔵名で呼ぶのが習わしになっていき、それは今に至るまで続いています(前回コラム参照)。
20世紀後半の高度消費社会になると、産地名でも生産者名でもない、イメージ喚起型のワイン名が現れるようになりました。これまた前回コラムでも例として挙げましたが、1984年に初ヴィンテージが発売となった「オーパス・ワン」。絵画や音楽の作品番号の意味で使われる「オーパス」というラテン語の言葉は、ワインの芸術的次元を強調していますし、「ワン」の語には、モンダヴィとムートンによる初めてのジョイント・ヴェンチャーということと、第一級のワインであることが意味として込められています。余談になりますが、オーパス・ワンの名前が決まる前の有力候補のひとつとして、「双子座」を意味する「ジェミナイ(Gemini)」というものがあったそうです。これもなかなか良い名前でして、実際に一旦はこれに決まりかけたそうなのですが、アメリカの有名なゲイ雑誌に同名のものがあると判明してボツに。ゲイ雑誌と同名だと何があかんねん、と抗議の声を上げておきましょう。
さて、神経科学の領域では、料理の名前によって人の知覚する香りや味わいが変わり、好みが左右されることを証明した実験がたくさんあります。人間の脳は、限られた資源を有効利用するために、感覚器官を通じ絶えず流入してくる信号に優先順位を付けていて、その順位付けに言語による情報が大きく関与しているのだそうです。たとえばキャヴィアが強調された料理名を耳にすると、キャヴィアの風味が知覚においてより強調されることになります。極端な例では、実際には存在しない風味すら感じるのが人間でして、カナシイ生き物ですね。「苦いですよ」と告げられてから食品を口にする実験の被験者は、そこに苦み成分がまったく含まれていなくても、「苦い」と感じてしまうのだそう。これは、脳の中の苦みを感じる部分が活性化された結果の現象なので、被験者が覚える感覚は、リアルに苦い物質を味わったときのものと区別がつきません。ワインの味わいにおいても、カベルネ・ソーヴィニョンとラベルに書いてあれば、タンニンをより強く感じるといった影響があるんでしょうね。
言葉による味の変化は、有機栽培といった好悪に結びつきやすいフレーズについても起こります。ブラインドで試食すると消費者は、有機野菜と普通の野菜を区別できないことが多いのですが、有機野菜とわかった状態で食べると、有機野菜のほうが美味しい、不味いといったはっきりした結果が得られます。自然派ワインについても、同じことは言えそうですね。まあ、亜硫酸が極端に低いか無添加のワインの場合は、ブラインドで飲んでも香りや味でそれと分かるものがほとんどではありますが。
好悪の感情がワインの味わいを変えるとして、ではどのような名前が一般に好ましい感情を引き起こすのかについても、興味深い実験があります。ワインのブランド名の「タイプ」が、消費者心理にどう影響するかを調べたニュージーランドの実験では、同国産ワインのブランド名を「原産地呼称入り」、「地理的特徴入り」(山、湖などの言葉の入ったラベル)、「マオリ語入り」、「動物名入り」、「奇をてらったもの」、「人名入り」、「外国語入り」という7つのカテゴリーに分けてアンケートを行いました。購買意欲をそそられるか、品質がどの程度高そうか、いくらまでなら支払うかなどの質問を、それらのブランド名を初めて目にする消費者に尋ねたのです。結果は、「人名入り」、「マオリ語入り」、「外国語入り」のブランドの評価が総じて高く、「動物名入り」、「奇をてらったもの」の評価が低いというものでした。
人名入りのブランドの高い評価については、「自分の名前を付けるからには品質に自信があるのだろう」という期待が働くからだそうで、オー・ブリオンに始まる生産者名の強調は、そうした心理に根がありそうです。マオリ語、外国語といった馴染みのない言語のブランド名が高く評価されるのは、エキゾチックな言葉が未知なる味わいへの期待につながり、好感度がアップするためだと思われます。一般的な消費財の名前としては好まれる「動物」や「ユーモア」は、ワインという商品とはあまり相性が良くないようです。
ワインの消費者は、ラベルやワインリストに書かれた文字情報を見た瞬間から中身について好む/好まないの方向性が定まっており、実際そのワインを口にしたときの印象を大きく左右していると想像されます。初めて目にする言葉、文字であってもその属性(生産者名、外国語など)によって好悪の感情が生じますし、知識や過去の経験に基づく予断がある場合にはなおさらです。特定の香りや味わいをイメージさせる言葉がワイン名に含まれているときは、その香りや味わいが増幅されもするでしょう。その意味で、ワインの名前はその経験と分離しがたいものです。
ワインのブラインド・テイスティングは、その品質を客観的に見定めるうえで最良の方法だとされますが、産地名、生産者名、ブランド名などの言語をはぎ取った状態で感じられる味わいは、背景情報を言語として与えられてから飲むときの味わいと、少なくとも違ったものにはなります。以前のコラムで、ワインのラベルデザインが、中身の味を変えるというこおとを書きましたが、同じ話ですね。ブラインドか否か、どちらがそのワインの「真実の」味わいかしらん、というのはとても難しいところです。
【参考文献】
ヒュー・ジョンソン『ワイン物語』小林章夫 訳、NHK出版、1990
ロバート・モンダヴィ『最高のワインをめざして』大野晶子 訳、早川書房、1999
Charles Spence, Betina Piqueras-Fiszman, The Perfect Meal, Wiley-Blackwell, 2014
Sharon L. Forbes and David Dean, Consumer perceptions of wine brand names, Wines&Vines, August, 2015
【初出】
美術出版社発行『Winart』(第79号)「味は美を語れるか?」(第13回)、加筆修正の上掲載
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立花峰夫:
ワイン専門翻訳サービス タチバナ・ペール・エ・フィス代表。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
(タチバナ・ペール・エ・フィス: http://www.tpf.kyoto.jp)
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