数ヶ月前になりますが、ジャンシス・ロビンソンほかによる大著『Wine Grapes』(原書刊行2012年)の翻訳本がとうとう出ました。どういう本かといいますと、世界中のワイン生産国(42カ国)において、商業ベースで用いられているブドウ1,368種を対象に、その起源、別名、栽培特性、主な生産地域、ワインの特徴などなどを詳細に記した事典です。邦訳名は『ワイン用葡萄品種大事典』(共立出版、税別42,000円)。大事典の名にふさわしく、総頁数は堂々の1,500。一日一品種ずつ、あるいは一頁ずつ読んでいっても、読み終わるまでには4年ぐらいかかるという大作でして、4年経つころには最初に読んだ頁など忘れているに決まっているので、半永久的に読み続けられるというお得な本であります。
世のため人のために、この記念碑的大事業をなしとげた訳者の方(北山雅彦、北山薫の両氏)は、ともに博士号をもつ植物科学の研究者です。かつ、監訳をされた後藤奈美先生は、酒類総合研究所の理事長にして、日本ブドウ・ワイン学会の会長でもあられる方なので、ワタシのようなチンピラ翻訳者が訳するより、その正確性はうんと担保されております。それにしても、原書刊行から7年、翻訳作業がどれだけ大変だったかは、想像して余りあってひっくり返るぐらいでして、ただひたすら頭が下がります。
で、両手にズッシリとくるこの翻訳本を始めて開いたとき、ワタシは衝撃を受けました。本文中に登場する品種名が、カベルネ・ソーヴィニョンとかシャルドネみたいな高貴品種以外、すべて原語表記のままなのです。「おー、とうとうやったか。この時が来るのを、ワタシは…ワタシは…、一日千秋の思いで待ちわびておったぞ!!」と、ウヒャウヒャ小躍りをして、その場でくるくると回ったのですが、結局それはぬか喜びに終わりました。なんのことはありません、本文中の表記はたしかに原語のままなのですが、各チャプター(アルファベットの頭文字順)の最初には、そのチャプターに含まれる全品種のカタカナ表記が、原語と並んで記されてあったのです。ちぇっ。
ワイン関連の翻訳、なにが一番大変かといいますと、品種名・地名・人名などの固有名詞を正しくカタカナにすることなのです。栽培・醸造関連の専門用語の処理など、それと比べればへいちゃらプーであります。アルファベット使用国の間の翻訳ではこういう問題は起こらず、Cabernet Sauvignonはフランス語の本であれ、ドイツ語の本であれ、英語の本であれCabernet Sauvignonと書いときゃいいわけです。読み手が発音できようができまいが、そんなの知ったこっちゃない。
しかし、残念なことに日本語に直すときはそうもいきません。カタカナにするためには、まず「Cabernet Sauvgnon」がどういう発音なのかを知らなければならないのです。ソーヴィニョンの「ヨ」を大きいヨにするか小さいョにするかといった、みみっちいこともいちいち決めなければなりません。まあカベルネとかシャルドネとかなら、さすがに大体発音を知っているのでさして困らないのですが、これがギリシャやアルメニアの聞いたことも見たこともない品種だと、その発音を調べて適切そうなカタカナに直すのには、とーっても時間がかかるのです。調べる方法は、あれこれあるにはあるのですが。
まあ、それでもまだ品種名の場合は、基本的に正しい発音はひとつなので、まだマシとも言えます。一番タチが悪いのが人名で、「チリ人だからスペイン語発音でいいと思ったら、実はポーランドからの移民だった」みたいなケースがざらにあるのです。ワタシは悲しい。もっというと、同じ家系のくせに、名字の発音が違うようなケースもあります。有名なのがMondavi一族の例で、兄ロバートはイタリア移民の誇りを胸に、イタリア語発音の「モンダヴィ」と名乗っていますが、弟のピーターは「アメリカ人なんだから、英語風でいいよねー」と考え、「モンデイヴィ」と名乗っていました。こういうのになると、当事者に直接聞く以外に、正しい発音を知る術はありません。ワタシは悲しい。
何年か前に、ジャンシス・ロビンソンがこんなことを書いていました。「フランス語とか、ドイツ語のアクセント記号、いちいち打つのかったるいよねー。みんなで一斉に使うのやめない、ワインの世界に限って」。アンタらこの上まだラクをするつもりなんか、と思った反面、日本人のワタシでもやっぱりアクセント記号を打つのは面倒くさいので、「とりあえず賛成~」と同意してはみたものの、その後、あまり状況は変わっておりませんね、残念ながら。
同じように、ワイン日本語翻訳カタカナ置き換え問題についても、みんなで一斉に止めたらどうかいなと思ったりします。原語のママにしちゃうの。「そんなのオマエら訳者がラクしたいだけだろ。知るか」というお声は十分承知なのですが、それで翻訳のスピードが上がるなら、皆さんのためになると言えなくもないかと。7年かかった『Wine Grapes』の翻訳が、5年で済んだかもしれないのですよ。
もっとも、原語のまま書いちゃうことの大きなデメリットはありまして、当然のことながら正しい発音がよくわからないというものです。アメリカのレストランなんかにいくと、例えばワインリストに載ってるシャンベルタン Chambertinを指して、「あーキミキミ、このチャンバーティンってのを1本持ってきてくれたまえ」とか、言ってる客がいます。でもまあ、それでもいいかーと思いませんか。だいたい通じるし。品種名でも同じで、たいていのアメリカ人は、たとえばSauvignon Blancの最後の「C」を軽く発音していますが、誰もそれで困っていません。フランスの首都パリ Parisを英語圏の人が「パリス」と発音するのと同じですね。
グダグダと書き連ねましたが、結論も教訓もなく今回は終わります。ワタシの知る限り、少なくとも3名はプロの翻訳者の方がこのコラムをお読みくださっているので、ぜひ上記の暴論にツッコんでやってください。
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立花峰夫:
ワイン専門翻訳サービス タチバナ・ペール・エ・フィス代表。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
(タチバナ・ペール・エ・フィス: http://www.tpf.kyoto.jp)
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