基本的人権のひとつである「移動の自由」が、こんなふうに制限されるときが来ようとは、夢にも思っていませんでした。この4月と6月に予定されていた、ワタシのワクワク欧州出張は、当然ながらキャンセルに。ヒッキーのくせに、予期せぬ制限をされると、「ああ、外国に行きたいなあ」と、遠い目になってしまいます。
とはいえ、私のちっぽけな不自由なんて、目下航空業界を襲っている苦難と比べれば、まったくもって何のことはありません。コロナ禍のおかげで、どの航空会社も国際線は軒並み極端な減便、従業員の雇用もどこまで守られるかわからない状況です。たとえば、世界最大の航空会社であるアメリカン航空は、これまで国内線・国際線の合計で、1日に7,000便近く(!)飛ばしていたそうですが(関連会社の便を含む)、今年3月中旬に、国際線の供給量を前年比で75%も減らすと発表しました(ひとまず5月6日までの措置)。国内線はまだマシだとはいえ、4月で20%、5月で30%に減少が見込まれています。ウララー。
この惨状は、ワタシたちワイン業界で生活している者たちにとって、決して対岸の火事ではありません。というのも、あまり世間には知られていませんが、航空会社というのは高級ワインを定期的に莫大な量、購入・消費してくれる、業界にとっての超超太客様なのです。そうしたワインが消費されるのは、主に国際線のビジネス&ファースト・クラス、そしてその乗客が利用するラウンジにおいて。下記『Decanter』のウェブ記事によれば、オーストラリアのカンタス航空は、同国産ワインの第3位の購買者であるとのことです(いまや状況は変わっているのでしょうが)。ドバイのエミレーツ航空は、2006年からの10年余りで、6.9億ドル(約760億円)もの高級ワインを買ったそうでして、その在庫数は380万本!(2017年時点)。ちょっとびっくりしますよね。
ワタシもかつて、ワイン輸入業者に務めていたときに、航空会社から選定コンペへの参加依頼を何度か受けたことがあるのですが、その単位は1銘柄何千本とか、何万本とか、「Oh! モーレツ」な量でした。もちろん、それだけのボリュームを買ってくださるからには、価格圧力がとっても強く、たとえ採用されても「たいして利幅は取れない」という面はあります。ただ、「XXX航空のファースト・クラスで採用!」といった事実が、その銘柄にとって格好の宣伝文句になる場合もあるので、基本的にはほとんどのワイン輸入業者様が、エアライン各社に対しては、「はは~」と頭を垂れてらっしゃるのではないかと。もちろん、上記のエミレーツ航空のように、輸入業者を介さず、直接世界のワイン生産者から買い付ける方針の会社もあるので、そういうところは対象外ですが。
さて、このエアライン各社がご利用のワインを、誰が実際に選んでいるかというと、コンサルティング契約を結んでいる業界の大物ジャーナリストや評論家、マスター・オブ・ワイン、マスター・ソムリエなどの皆様。下記『Decanter』のウェブ記事では、シンガポール航空のワイン選定について、香港の大物MWであるジョニー・チョー・リーと、イギリスの大物ジャーナリストのオズ・クラークが、一週間缶詰めでブラインド・テイスティングをして選ぶのだと紹介されています。その数は1,000銘柄近くになるそうで、まあ相当な労働というか、拷問に近い試飲ですねえ。
ラウンジでサーヴするワインはともかく、機内で飲むワインについては、「美味しくてコスパがいいものを」というのとは、別の観点も考慮して選ばなければなりません。高度1万メートルの上空の機内では、ワインを味わう環境が、地上とはまったく異なるからです。この点については、オックスフォード大学で知覚にフォーカスした実験心理学を研究している、チャールズ・スペンス教授の著書、『「おいしさ」の錯覚 最新科学でわかった、美味の真実』に、詳述されていますの。そこからポイントを抜き書きしてみましょう。
●低い気圧下では、甘味、酸味、苦味を感じにくくなる。
●低い気圧下では、芳香分子が揮発しにくくなる、つまり香りを感じにくくなる。
●湿度が極端に低い環境下では、鼻が乾燥し、芳香分子を取り込みにくくなる。
●大きな騒音の中では、甘味は感じ方が弱まり、旨味は感じ方が強まる。
おおまかにいうと、アロマティックで、果実味が強く、甘味や酸味も強い、香りや味のメリハリがはっきりしたワインが、機内で飲むには適しているようですね。
さて、最後にマメ知識をひとつ。ビジネスやファースト・クラスでサーヴしたワイン、目的地に到着したときに、ボトルに残っていることが当然あります。各国の税法上の制限から、飲み残しボトルを機内から持ち出すことはできないそうでして、かといって「乗務員たちでグイグイいっちゃえ~!」というワケにもいきません、勤務中ですから。で、どうしているかというと、特にシャンパーニュの残りでそうするらしいのですが、「手を洗う」のだそうな。ハンドスクラブの代わりに使うわけです。この話、今から20年ほど前に、日系エアラインの国際線客室乗務員の方に伺って、「ホントかよ」と思っていたのですが、下記『Decanter』のウェブ記事にもまったく同じことが書かれていましたので、万国共通の慣習のようですね。
まあなんにせよ、一日も早くこのコロナ危機が終息し、エアライン各社の便数とワイン購入量が平常に戻り、客室乗務員の方々はシャンパーニュで手を洗えるようになり、読者の皆様が機内でワインを楽しめるようになる時が来ることを、心よりお祈り申し上げております。
<参考サイト>
https://www.decanter.com/features/airline-wines-secret-life-372891/
https://www.traicy.com/posts/20200315148446/
<参考書籍>
『「おいしさ」の錯覚 最新科学でわかった、美味の真実』
チャールズ・スペンス 著, 長谷川圭 訳(KADOKAWA, 2018)
********************************
立花峰夫:
ワイン専門翻訳サービス タチバナ・ペール・エ・フィス代表。
ワインライターとして専門誌に寄稿も行う。訳書・監修書多数。
(タチバナ・ペール・エ・フィス: http://www.tpf.kyoto.jp)
********************************